『脳みそが手についてる』 : 行為の中で開かれる思考
2025.06.28
『ブルーピリオド』のネタバレを含む内容です
「脳みそ動いてる。脳汁ドバドバきてる。俺、いま 多分 脳みそが手についてる。」
試験時間5時間のうち、残り2時間というタイミングで、このセリフは登場する。
当初、八虎は「悪くないテーマだ」と感じながらも、どこか「微妙にワクワクしない」まま手を動かしていた。
しかし、試験中にあるきっかけをトリガーにして、彼は極度の集中状態、いわゆるゾーンに入る。
そしてその状態を、「脳みそが手についてる」と表現する。
描くために、考えないと
「脳みそが手についてる」というセリフは後に、日々の課題や制作に悩みながらも前に進んでいく中で、再び登場する。
大学2年の最初の課題「2週間で500枚のドローイングを描け」という課題に悩んでいた。膨大な量の課題にコンセプトが定まらず、手が止まってしまう。「描くために、考えないと」と思っても考えが進まず、悩みのデスループに陥っていた。
同じ課題に取り組んでいて、着実に進んでいる仲間に「なんでそんなスラスラ描けるんすか..?」と聞いたところ、「考えて描くんじゃなく、楽しく描けばいい」と返ってきた。いかに理論的に進めているかの答えが返ってくるかと思ったが、どこか拍子抜けしてしまうような返答だった。
そそのかされたような気分で、結局コンセプトは定まっていないままだったが、このやりとりを踏まえて、見切り発車で人を観察して描き始めた。
なんか 描いてる時の方が 頭働いてる。 …や違うか。 これは、脳みそが手についてる
この考えが進まない、悩みのデスループの突破口となったのは、新しいテクニックでも、理論でもなく、「筆を置いて、あとは走るだけ」という、シンプルな方法であった。
結果として、彼自身が大学入学前にも一度経験している「脳みそが手についてる」という心の声が再び出てきた。
環境の変化や時間の経過によって、忘れかけていた感覚だったのかもしれない。
人から見たらただのクロッキーかもしれないが、八虎にとっては、「描くことでしかたどり着くことの出来ない」という感覚を思い出す、大切な制作になった。
行為の中で開かれる思考
ここでの、「脳みそが手についてる」という言葉は、『思考が頭の中に閉じ込められているのではなく、行為を通じて外にひらかれていく』ことを示しているとも言える。
素材を単純に操作するだけではなく、素材との対話を通して、自らをつくりかえていく。
「省察的実践とは何か」の中で、行為の中の省察について説明している。
日常生活での行為は、意識しないまま自然に生じる。直感的な行動である。日常生活の行為にとりかかるとき、私たちはある特別な方法でよくわかっているかのように振る舞う。しかし、私たちがわかっているものが何かは、言えないことが多い。文章にしようとすると途方にくれ、あるいは明らかに間違った記述になってしまうことに気づく。私たちの知の生成は、行為のパターンや取り扱う素材に対する触感の中に、暗黙のうちにそれとなく存在している。私たちの知の生成はまさに、行為の<中 (in)>にあると言っていい。
(ドナルド・A・ショーン, 省察的実践とは何か -プロフェッショナルの行為と思考-, p50)
ショーンは、熟練した実践者が日常的に行なっている判断や行動には、言葉では説明できないような、「暗黙知」が含まれていると述べている。行為の中で、実践者自身が体得している知識や判断が自然と働いている。これを「行為の中の知」と呼んでいる。
また、行為の最中に生じる違和感や手応えをきっかけに、自らの行為をその場で調整することを、「行為の中の省察 (reflection in action)」と呼ぶ。
ブルーピリオド 矢口八虎の「脳みそが手についてる」という心の声は、この「行為の中の知」を表していて、「行為の中の省察」の発生プロセスを描写していると解釈できる。
やってみないとわからないし、やってみると見えてくることもたくさんある。
「脳みそが手についてる」という心の声は、手を動かすことでしか辿り着けない思考が確かにあることを示している。立ち止まってしまったときは、手を動かすうちに、脳みそがついてくるのかもしれない。
今だと、日々発展し登場している生成AIツールにより、作り始めるハードル自体は下がっている。なおさら、まずは手を動かしてみることが、何かの契機になり得るかもしれない。
という、もがきながら前に進んでいく八虎から、勇気をもらえるようなシーンであった。
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